昭和20年8月6日午前8時15分17秒、「エノラ・ゲイ(ENOLA GAY)」という名前のアメリカ軍B29戦闘機が原爆「リトル・ボーイ」を投下した。
高度580 mで炸裂したこの原爆は一瞬の爆発で30万人の民間人の生命を奪った。
広島にはこの原爆投下の遺物がいろいろと保存されている。
その代表ともいえるのが世界遺産原爆ドームだ。
原爆ドームとは?
旧「広島県物産陳列館」
1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。
設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル。
ドームの先端までの高さは約25mあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物。
日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われた。
1921年に広島県立商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。
1933年には広島県産業奨励館に改称された。
この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献した。
昭和20年8月6日午前8時15分17秒原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。
原爆ドーム部分が全壊しなかった理由
原爆ドーム部分が全壊しなかった理由には様々な要件が関係している。
・衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと。
・窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
・ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。
*銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなった。
などが挙げられている。
原爆ドームの現在
ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。
原爆投下時に建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されている。
1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定。
原爆ドームの写真
数年前に広島へ旅行したときの原爆ドームの写真いろいろ。
素人が取ったものなのでピンボケしてるのはご容赦願いたい。
なんつううか、一度行った方が良いよ原爆ドーム。
そして、広島市の独特の雰囲気も感じてほしい。
広島へ行くと、現実にはたくさんの人が歩いていたり、車が走っていてにぎやかなんだけど、その現実とは別の静かな、時間が原爆投下の前に戻ったような雰囲気がある。
コメント
原爆ドームは、多くの人から愛されて今も壊されていなかった。
色々な人にとって大切な建物だ。
こんなことが、二度と起きないように若い世代の人から小学生のみんなに知って
もらえると嬉しいです。
原爆ドームは、窓が多かったため全てが、壊されなかった
そうです。